『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』:真性右翼と「理不尽な生」

"日本のサブカルは今年もますます「痛み」や「悲劇」から遠ざかりました" (MIYADAI.com)から
文章を書く練習を兼ねて。

はしがき

読んで理解した気になることは、ままあることだ。しかし、実際に理解できているかどうかはわからない。
人に説明したり、簡単にまとめたりする。そのような作業をしてみて、自分が理解したことを確認することができるのだ。
以下、その試み。

Keywords(もしくはさらなる理解の必要な語句)

概要(私の現時点での理解)

伏線(導入)

今年度の日本のサブカルを、「痛みの欠落」の一言で括る。
多用される「死にオチ」は他人事であり、現実の痛みとして自らに突き刺さってくるようなものでは無い。
「セカイ」ではなく、自分が生きる〈社会〉を含んだ〈世界〉の理不尽さ――〈世界〉の根源的未規定性の描かれたものは、痛みが突き刺さってくる。

理不尽な生と真性右翼

2006年の「痛みの突き刺さる」作品として、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』を挙げる。
この映画は、普通の反戦映画ではない。「真性右翼的」な国家不信が見受けられるが、「国家」を取り除けば悲劇を回避できるとはしていないからだ。
これは、誰にも帰属させることができず、誰も免罪されない悲劇である。
父親たちの星条旗』で描かれるものは「悲惨な死」ではなく「理不尽な生」を強いる〈社会〉だ。我々全員が、その〈社会〉(を含む世界)に対して「震撼し、自らの生に怖じ気付く」のである。
国家、国家に煽動される社会、そして故郷さえも否定の対象として描かれ、そこでは「内発的感染の近接性」だけが信じられている。
国家のため・家族のためにではなく、戦友のために戦う。米国側だけでなく日本軍側の内発的感染も平等に擁護する。そして、一部の人為によって理不尽な生を強いられる近代社会の在り方を描き出す。これこそ真性右翼的なのである。

エリートと「理不尽な生」

ロス五輪馬術競技優勝者で米国社交界で名を馳せた西中佐。米国に留学しカナダ駐在経験もある親米エリート将官である栗林忠道中将。『硫黄島〜』に登場する彼らはエリートである。エリートたる彼らの「理不尽な生」とは何か。
栗林中将は、愛する家族を守るために戦いたいと言い、愛する家族のために生きて帰りたいとも言う。国家は戦って死ぬことを求め、家族は生きることを求める。
また、栗林中将や西中佐にとって米国は、憧れの国だ。しかし、彼らは国家によって米国と戦うことを逃れることができない。
教養あるエリートである彼らは、家族より国家の方が超越すると思いこむことも、国家のために死ぬことが家族のためになるとすることもできない。
米国と戦うには、日本が米国より優越であると信じるか、米国が日本より劣る(鬼畜米英)と思いこむしかない。もちろん、彼らには到底取り得ることのできない選択肢である。
なれば、エリートに残された生は「理不尽な生」しかない。認知的不協和を抱えたまま生きるしかない。
イーストウッド監督にとって、国家による「国のため」「家族のため」と言った物言いを信じるのは、馬鹿の物言いを信じるのと同じだ。肯定されるのは「傍らの友のために死ぬというミメーシス」だけだ。
「国の崇高」「潔き自死」のような逃避的信念を否定し、「理不尽な生」を生きよと推奨するのである。
逃避的信念を回避し「理不尽な生」を生きる者が、「理不尽な生」を強いる者を見通し、悲劇を見通すのだ。ここに真性右翼ならではのメッセージが見られる。
「理不尽な生」を強いる国家(世界)の悲劇を知り、痛みを知る者だけが革命家になれるのだ。

以上。これより抜け落ちている部分は、私の理解が及ばなかったか、余分なものと判断した部分。
解釈編へ続く。