教養の学問

人間以外の動物は言葉をもたない、という主張がある。このときは、動物も様々な交信を行うけれど、それは我々の言語活動とは質がまったく異なる、とみなしていることになる。

「言語について素朴に考えてみる」という記事が、はてなブックマークの人気エントリに挙がっていた。上記に引用した通り、基本的な人間の言語に関するものだ。tokyocatさんが、一冊の本と出会った新鮮な驚きを感じさせる好文章だと思う。
これが人気エントリにあることを鑑みて、私は、はてなのユーザが多分に「理系」的であると思った。経済学や社会学の話題が人気エントリとして登場することは、たびたびある。しかし、文学・言語学比較文化などの分野が登場する場合、井戸端会議的なものに終始しているように思える。人文科学系の基礎的な教養というものが、意外にも広まっていないのだと思った。
とはいえ、文系の教養といっても言語学系統・文学系・文化系と細かく分かれてしまうから、「一般教養」なんてものを前提とすることはできないのかもしれない。何をもって教養とするか、という問題もある。

ソシュール学説

今回の話に関係ありそうなところについて、大まかな話をする。内容は主に、ソシュールの学説*1の抜粋。「教養」として、今の私の頭に残っている言語学を絞り出してみようというわけである。

言語記号の恣意性

言語記号の恣意性とは、言葉(記号表現、シニフィアン)とそれが表す対象(記号内容、シニフィエ)は、必然的結び付きをもっていないということである。例えば、「水」はミズとよばれたり、waterとよばれたりする。ある対象に、どのような言語記号が対応するかは、いわば約束事に過ぎない。
また、次のような恣意性がある。先の例にも挙げた「水」を例とする。日本語で熱い水は「湯」とよばれる、英語では100度でもwaterである。このように言語記号が表す対象の範囲も、恣意性がある。
ちなみに、擬声語は、実際の音に近いものであるから例外。猫の鳴き声はミャアとかmewのように、言語によって全く違うわけではない。

シンタグム関係とパラダイム関係

言語の恣意性は、動物と言語についてはあまり関係ない話だった。寡聞にして私は、パラダイム関係のある言葉を発する人間以外の動物は知らない。
シンタグム関係とは、簡単にいえば横の関係である。「大きな犬が居る」とあった場合、"大き", "な", "犬", "が", "居る" それぞれの要素には、文法的なつながりがある。「犬 ほえる」とか「りんご 食べる」のような、単語の羅列ではない。
対してパラダイム関係は、縦の関係である。「大きな犬が居る」をシンタグム関係をそのままに「小さな猫が座る」と置き換えることができる。交換された要素は、パラダイム関係にある。
言葉を組み合わせたり入れ替えたりすることができないので、動物には言語が無いといえる。*2

動物と言語

tokyocatさんの記事では、パースの記号論が話題になっていたけれども、人間と動物の「言葉」が違うということは、ソシュールの基本的な学説でもある程度説明できると思う。
言語学を思い出しつつ、記事を書いていたら、もう一つ思い出したことがある。「心理言語学」なんて講義を受講していた。せっかくだから、こちらの話題も記事を改めてしようと思う。こちらの講義では、動物の情報伝達も取りあげていたし。それに、文系の教養レベルともいえないので。

*1:ソシュールの講義をノートにまとめてできた学説、という方が正確だが。

*2:単語を組み合わせて意思疎通を図るチンパンジーとか、実際のところ単語の羅列の域を出て文法をもっているかというと確かなことは言えない