客観を認識するということ

まずは、言葉遊び。

言うまでもないことだが、世間一般の常識からして、これらは妄信するべきではない。
この一文は嘘です。
遊びは終わり。

客観は主観的に認識される

認識とは、自分が認め、意識に上ることである。
意識に上った認識は、外部からの情報をダイレクトに反映したものではない。認識する行為の仕方や理性などの影響を受けている。
だから、常識も世間も「客観的」事実も、自分自身の「認識」を免れることは無い。
自分の頭で考えた/感じたことを主観とよぶのならば、意識された客観は主観的働きによって認識されている。

カントのように人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、ありのままの事物(物自体 Dinge an sich)を知ることは不可能である、と考えることは現代においても比較的広く受け入れられている発想である

主観を客観的だと納得させる

客観とか論理とか、結局は「客観(と認識されるもの)」「論理(と認識されるもの)」に過ぎない。
論争は、論争参加者の主観を一致させる作業なのだ。だから、常に自分が客観的で論理的だなんて思い上がってはいけない。相手も自分も、主観的なのだから。
例えば、仁和寺にある法師が二人居て、清水の姿を一致させる行為のようなものだろう。
わかりにくいたとえ。