アナログもしくはオフライン

自由を制限する自由

無印で買った、文庫本サイズのノート。これに手のおもむくまま日記のように書き込む、ということを始めた。

買ったはいいけど使い道を考えていなかったノートですが、自分で書き込んで、文庫本(のようなもの)が出来上がっていくのは楽しいものです。

ほんの少しだけ、はてなダイアリーなんかのネタ帳になるのではないかと思ったのですが、書き始めた頃から、すとん、とこちらに書くことをしなくなってしまいました。

ネタ帳としては、確かに使おうと思えば使えます。しかし、そこはかとなくかきつけた文字は、そのままでは使えませんでした。つまり、これは書くべきではないとか、これは使えないとか、という判断や制限が必要だったのです。

これまで、はてなダイアリーを自由に書いていたつもりでしたが、こんなにも強く、自分自身を制限して、各方面に配慮していたということに、はたと気がつきました。

場のもたらす雰囲気というものは、それほどに強いのでしょう。自由に行動しているつもりでも、自由にしていいといわれても、場に影響されてしまうものですね。

ですから、「自由」とあるところ、「自由」とするところには、ゆめゆめ気をつけなければなりません。制限や暗黙の了解があるとわかっているような場であれば、気をつけて行動するでしょう。しかし、「自由」とあるところは、その制限や抑制されていることに気がつきにくいものです。自分自身が「自由」に、自分で自分に制限や配慮をしてしまうのですから。

紙と鉛筆で書くこと

手書きは、表現として優れている。しっかりとデザインされている書体を使った文書は、きれいで読みやすいといえる。しかし、そこに表現できることといえば、手書きの半分にも満たないのではないだろうか。

例えば、線の太さや勢い、文字間のつながりや流れ、間、これらを自在に扱うことのできる手書きの文字は、伝達手段として極めて優秀だといえよう。

自分のいいたいことを、自分の好きなようにいえる、表現できるということは楽しいです。

書くこと、それ自体の快楽は、Web上の表現からはこぼれ落ちてしまうのかもしれません。

だからこそ、文章だけで何かを表現するということは難しいのでしょう。