語りと受け手と覚悟
あたりまえのことだけど、あらためて書いておこう。今さらだとか、どこかで誰かが言っていたとかじゃなく、自分のために。
七十でも聖人でもない僕はただオロオロとするだけ*1
何かを表現すること、それが批評であれ感想であれ自分語りであれ、相手に言葉を投げかけて受け取らせることに他ならない。
ほめたつもりで怒られる
自分が言いたいことだって、自分が納得するようには言えない。
言えないし、わからないし、伝わらない。
それでも自分は身勝手に書き続ける。
悲しませ、楽しませ、喜び喜ばせ、傷つき傷つかせる。
相手のことを配慮してみても、想像してみても、それがどう受け取られるのかをコントロールすることは出来ない。
悲しみも怒りも傷も一身に受ける覚悟をして、悲しませ怒らせ傷つけることも、身勝手に覚悟しよう。
自分が覚悟したところで、相手が受けたことは変わらないし、何かの免罪符になることもない。
それでも断絶を前にしてもなお、あきらめ悪く書こう。それが独りよがりな覚悟を以てやっていることを肝に銘じておこう。
好きです、愛しています、私の気持ちです。これだって「私の」気持ちに過ぎないのだから。
なぜか最後に要約
表現するからには、受け手に殴られる覚悟があらまほし、なことがある。だけど覚悟があるからって殴られるようなことしていいわけじゃないよね。
*1:七十而從心所欲不踰矩 七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず